【岐阜廃城】400年前からの見事な石垣が現存する、見応えたっぷりな山城。美濃国 小里城跡を歩いてみたら、ぜひもっといろんな人に見に来てもらいたくなった件

廃虚
土岐一族の支流である小里氏の居城で、天文3(1534)年に
小里出羽守光忠が築いたのが始まりとされています。
小里氏は戦国時代末期頃、小里光明らが織田信長の直臣として活躍しました。
岐阜県指定の史跡です。

グーグルマップで検索すれば出てきます、駐車場を検索

小里城跡駐車場 · 〒509-6103 岐阜県瑞浪市稲津町
★★★★☆ · 駐車場

駐車場は、比較的広く7~10台くらいは停められます。

日曜日の10:00くらいに行きましたが、

ガラガラで登っているのは自分たちだけでした(;’∀’)

登り口は目の前

登り口は目の前ですが、国道20号 別名 奥矢作さくら街道を横断しなければなりませんのが

横断歩道がありませんので十分に安全に配慮して向かってください(‘◇’)ゞ

トレッキングシューズがベスト

小里城は小里川の西岸にあり、山塊の北東端の標高403mの城山山頂に築かれているので

軽い登山です( ;∀;)

山頂まで ゆっくり見ながら歩いて30~40分かかりますので、

トレッキングシューズに飲み物持参だといいかもしれません(‘◇’)ゞ

少し歩くと 縄張り図があります。

年代不明の昭和レトロベンチ

城跡とは関係ありませんが、ブログ主は廃な風景が好きなので、

このベンチに目を奪われましたw

たまり・みそ・清酒 昭和だなぁ( ;∀;)

案外険しい山道・・・・。

伐採とかしちゃダメですよ!!って注意書きを横目に歩いて行くと、

案外、本格的な山道になっていきまして・・・

しかも、危険歩行注意!の看板まで出現

そういうつもりじゃないと バテますよねwww

山頂付近到着(‘◇’)ゞ

山頂に登頂すると、立派な石垣が見え、登ってきた疲れが吹っ飛びますw

なんちゅー立派なんだよ、予想外すぎてビックリした( ゚Д゚)

この高さと大きさは良いですね(;’∀’)

ところどころに大きな石も組み込まれ苔生した石垣は圧巻です。

これで天守も残っていたらなぁ・・・ なんて思ってみたりもするw

何やら説明文が書かれているものですが、いつの時代に建てられたものでしょう??

山頂 天守台前からの眺め

これは、山頂天守台前からの眺めになります。

時の小里氏は、ここから瑞浪の城下町を眺め、

岩村城奪還のための策を練ったりしていたのでしょうか?

うちの嫁もそんなことを考えながら、街を見ています(*’▽’)

山頂には、東屋もありますので、弁当持ってくれば

気持ちよく昼食が食べられそうです(笑)

岩村城を奪還するために、織田信長の命により改修工事をおこなっている途中で、

奪還作戦が成功し、工事は中断することになったそうで、

この石切跡も当時のまま残っている?そうな・・・。

明らかに人の手が入っている石に感動(;’∀’)

【歴史】 小里出羽守光忠が天文三年(1534年)に小里川南岸の城山に築いた。

それ以前は付近の興徳寺の西に小里新城があり、土岐氏や小里氏の居城だったとされる。

小里氏は土岐元頼あるいは、その子・頼連から始まったとされ、
元頼の戦死後は諸国を放浪したが、越前国朝倉氏の後援を得て
土岐、恵那両郡の旧領・約3600石余を取戻した。
ただし、築城者の光忠が土岐氏の系譜を引くかは不明とされる。

 光忠は織田信長に従い、その子・光明は天正二年(1574年)に
美濃国内の武田家の岩村城を攻める拠点として小里城を改修し、
池田恒興が城の御番手となった。
なお翌年岩村城が落城するとこの工事は中止された。

光明は織田信孝に仕えたが、本能寺の変の後、豊富秀吉に敗れて信孝が自害した後は、
光明は小里城を離れ和田姓を名乗って徳川家康に仕えた。

天正十九年(1591年)に旗本・和田光明として
相模国東郡岡田郷(現・神奈川県寒川町)に領地を当てがわれている。

その後、関ヶ原の戦いの功によって光明の子・光親は
慶長五年(1600年)に土岐、恵那郡の旧領を再び与えられた。

しかし光親の子・光重は嗣子がないまま元和九年(1623年)に亡くなったため、
小里氏は断絶した。


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